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更科 (蕎麦屋) : ミニ英和和英辞書
更科 (蕎麦屋)[さらしな]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
  1. (n,n-suf) department 2. section 
蕎麦 : [そば]
 【名詞】 1. soba (buckwheat noodles) 
蕎麦屋 : [そばや]
 【名詞】 1. buckwheat-noodle restaurant 
: [むぎ]
 【名詞】 1. wheat 2. barley 

更科 (蕎麦屋) : ウィキペディア日本語版
更科 (蕎麦屋)[さらしな]


更科(さらしな)は、江戸の蕎麦屋の老舗で、「更科」といえば、「藪 (蕎麦屋)」、「砂場 (蕎麦屋)」と並び、蕎麦御三家の一つに数えられている。
== 歴史 ==

* 1788年寛政元年) - 信州出身の八代目堀井清右衛門(現・「更科堀井」初代布屋太兵衛)は、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業した。堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を背負って保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は堀井清助(布屋太兵衛)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家屋敷内の長屋に滞在を許されていた。堀井清助は、1693年元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門のとき、領主保科兵部少輔から、そば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた〔岩崎信也著、『蕎麦屋の系図』、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。〕〔植原路朗著、『そば物語』、井上書房、昭和34年12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。〕。
* 1824年文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている。御膳蕎麦とは、将軍家御用を承わり江戸城中の愛顧を受けていたので、「御膳蕎麦」を創製、また、この堀井家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した〔中川五郎左衛門編、 - 山城屋左兵衛他、1824年(文政7年)、2016年2月24日閲覧。〕〔植原路朗著、『そば物語』、「そば・江戸から東京へ」、井上書房、1959年(昭和34年)12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。〕。
* 1848年嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
* 1858年安政6年) - 麻布永坂更科(現・更科堀井)の四代目布屋太兵衛没。
* 1869年明治2年) - 麻布永坂更科は、神田錦町に初代布屋丈太郎「神田錦町分店(現・神田錦町 更科)」を開店した。創業以来五代目に至るまで、一軒も支店を出していなかった。初代布屋丈太郎は、麻布永坂更科の六代目松之助の妹堀井かねとは従兄妹同士の間柄で、丈太郎が堀井かねの婿養子になる形で結婚、分店として出店、屋号は布屋丈太郎であった。一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあった。分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた〔岩崎信也著、『蕎麦屋の系図』、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。〕。
* 1873年(明治6年) - 麻布永坂更科(現・更科堀井)の五代目布屋松之助没。
* 1875年(明治8年) - 名字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、六代目堀井松之助となる。
* 1899年(明治32年) - 麻布永坂更科で、15年間修行した赤塚善次郎は23歳で独立し、深川佐賀町に、初代布屋善次郎「麻布永坂更科支店 布屋善次郎(現・さらしなの里)」を開店、麻布永坂更科初の支店である。
* 1902年(明治35年) - 日本橋三代町(現・日本橋兜町)に「有楽町更科」を開店。
;「明治31年の麻布永坂町の蕎麦店 更科」〔新撰東京名所図会、『風俗画報』、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年(明治35年)3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月20日閲覧。〕
* 1912年(明治45年) - 牛込神楽坂に「麻布永坂 牛込通寺町支店」を開店。
* 年代不詳 - 明治後期、芝二本榎西町に「芝二本榎西町支店」を開店。
* 年代不詳 - 大正初期、下谷池の端に「下谷池の端仲町分店」を開店。
* 1922年大正11年) - 日本橋三代町の店を麹町区有楽町に、「有楽町更科」として移転。
;『食行脚 東京の巻』「更科」奥田優雲華著〔奥田優雲華著、『食行脚 東京の巻』、「更科」、協文館、1925年(大正14年)、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日閲覧。〕
* 1930年昭和5年) - 不景気のどん底の年で、更科一門はそばの値段を下げた。この時の麻布永坂更科一門は、麻布永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店だが、尾張町と有楽町は同経営者なので全部で7店で、巷間「更科お七軒様」と呼ばれていた〔岩崎信也著、『蕎麦屋の系図』、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年2月20日閲覧。〕。
;「そば・江戸から東京へ」〔植原路朗著、『そば物語』、「そば・江戸から東京へ」、井上書房、1959年(昭和34年)12月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。〕
* 1941年(昭和16年) - 本店七代目堀井保のとき、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響で廃業に追い込まれる。
* 1947年(昭和22年) - 料理屋馬場繁太郎が、そば屋「永坂更科製麺部新開亭」を開業。
* 1948年(昭和23年) - 戦後の混乱のなか、麻布十番一の橋のたもとに料理屋馬場繁太郎(現・麻布永坂 更科本店初代)が「永坂更科本店」を開店。
* 1949年(昭和24年) - 七代目堀井松之助、妻きん、麻布十番商店街の小林玩具店 小林勇、麻布十番商店街の組合長木村政吉により、合資会社「麻布永坂更科 総本店」を開店。
* 1950年(昭和25年) - 初代馬場繁太郎、麻布十番に「麻布永坂 更科本店」を開店。
;「永坂散歩道 - 昔ながらの味 植原路朗」〔『蕎麦そのほか』、第1号、「永坂散歩道 - 昔ながらの味」、植原路朗著、昭和46年4月1日、国立国会図書館蔵書、2016年2月25日閲覧。〕
* 1959年(昭和34年) - 初代小林勇、麻布十番に合資会社「現・永坂更科 布屋太兵衛」を開店。
* 1960年(昭和35年) - 堀井良造(後の「更科堀井」八代目)は大学を卒業、合資会社「永坂更科 布屋太兵衛」に入社。
* 1961年(昭和36年) - 二つの合資会社合併により、株式会社「永坂更科 布屋太兵衛」となる、代表権は小林勇のものとなり、「布屋太兵衛」も商標登録された。
* 1963年(昭和38年) - 伊島恒次郎、品川区南大井に初代布屋恒次郎「布恒更科」を開店。
* 1984年(昭和59年) - 「永坂更科 布屋太兵衛」の専務取締役堀井良造は、24年間勤めた会社から離れ、麻布十番商店街に「信州更科 布屋総本店」を開店。後に、店名の「布屋」の使用権を巡って裁判となり、「更科堀井」と改称した。これで、戦後の「更科堀井」、「麻布永坂 更科本店」、「永坂更科 布屋太兵衛」、3店の屋号の問題に終止符がうたれた。
* 2004年(平成16年) - 伊島始、築地に四代目布屋恒次郎「布恒更科」を開店。
* 2013年(平成25年) - 伊島巧、大井に五代目布屋恒次郎「布恒更科」を継承。
* 2016年(平成28年) - 現在、「神田錦町 更科」は四代目布屋丈太郎(堀井市朗)と五代目布屋丈太郎(堀井雄太朗)の二人で、「さらしなの里」は四代目善次郎(赤塚滋行)によって引き継がれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「更科 (蕎麦屋)」の詳細全文を読む




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